里山の寺として
常昌院は、曹洞宗のお寺ですが、その歴史的背景として、鳶尾山のふところの「里山に対する信仰」があります。里山とは、生活の源である水と緑を育む山のことですが、常昌院は、以前は、沼や池が多く、水が豊富な場所で、まさに、鳶尾山(とびおさん)の懐(ふところ)にある”里山の寺”でした。特に、境内には水の絶えない沢があり、「雨乞いの場」として信仰されていました。
密教や山岳信仰の趣
常昌院の本尊は「釈迦牟尼佛」(しゃかむにぶつ)ですが、元の本尊は「地蔵菩薩」でした。「三宝大荒神」、「弁財天」「薬師如来」「妙見菩薩」「十一面観世音菩薩」など、密教系の仏像を祀っています。このように、常昌院は、禅宗寺院でありなら、密教や修験的な民衆信仰のおもむきが今も息づいています。
鳶尾山を背景とした寺域
以前の寺域としては、鳶尾山の山頂に「山王社」があり、そこから裏鬼門の峰に「白山社」が配され、表鬼門には「観音堂」(伝・運慶作)が祀られていました。また、その観音堂から「山王社」「金毘羅宮」「八菅の修験道場(現・八菅神社)」へと、鳶尾山の峰伝いに続いていました。
明治時代までは、茅葺きの本堂と庫裡、坐禅堂などの建物がありましたが、昭和33年(1958年)の大火で全焼してしまい(3寸の誕生佛のみが残る)、今は、お堂も仏像も当時のものはありません。また、昭和40年代の裏山、観音山の掘削により景観は変化してしまいました。
所在地の変遷について
開創当初の所在地については、明確な記録はなく「八管(はすげ)下平の地」(現在、愛川町)であることが伝承されています。
常昌院の「山王社」「石造佛」は寛文年間、「三世・岳良長大和尚」の代に建てられ、その約六十年後の「五世・明月活道大和尚」の代には山王社は再建され、境内地も大規模に整えられています。
寺の記録によると、この五世の代に「此の地(現在の寺谷)に移す」と記されています。したがって、三世の代から現在地(厚木市寺谷)と深い縁があり、五世代に堂宇境内が本格的に整備されたと思われます。
常昌院本堂古図について
幕末から明治4年頃にかけて作成されました當院の本堂書院の古図を掲載しました。昭和33年まで現存した本堂であったかと思われます。
また、他の古図も、年代が確認できませんが、境内に本堂、書院、禅堂と記されたものも見つけられています。
この本堂はいつ頃立てられたかは不明ですが、昔の風貌がうかがえます。
開創についての記録 ~「相模風土記稿」から
常昌院 曹洞宗 田代村勝楽寺末 雲渓山と号す、本尊釈迦、開山種巌宗藝 文禄元年十月十五日卒 。山王社 山上にあり、観音堂 本尊は運慶作長一尺三寸 堂中境内の鎮守白山を安ず、薬師堂
世代 |
名称 |
示寂(逝去)、入山(就任)等 |
開 山 |
種巌宗藝大和尚
|
天正二十年十月十五日示寂 |
二 世 |
代通良積大和尚
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寛永十六年五月二十八日示寂 |
三 世中興 |
曳岳良長大和尚
|
寛文十三年二月十九日示寂 |
四 世 |
月桂参道大和尚 |
正徳五年十一月二十日示寂 |
五世再中興 |
明月活道大和尚
|
寛保三年一月二十六日示寂 |
六 世 |
明鼎黙紹大和尚 |
安永二年九月二十四日示寂 |
七世 |
能山明藝大和尚 |
宝暦十年九月十九日示寂 |
八 世 |
大光玄乗大和尚 |
寛政六年十二月二十二日示寂 |
九 世 |
徳應大隣大和尚 |
文化五年七月三日示寂 |
十 世 |
無相海禅大和尚 |
文化六年四月六日示寂 |
十一世 |
道仙義山大和尚 |
文政二年七月十八日示寂 |
十二世 |
大桃義仙大和尚 |
文化十五年十一月九日示寂 |
十三世 |
祥雲玉龍大和尚 |
天保四年十二月十八日示寂 |
十四世 |
覚仙鐵門大和尚 |
安政四年八月六日示寂 |
十五世 |
太宗祖巌大和尚 |
明治五年上総 新勝寺へ移転 |
十六世 |
大仰覚卍大和尚 |
明治十年二月大住郡平澤村浄円寺へ移転 |
十七世 |
天童愚鑑大和尚 |
明治三十一年八月九日埼玉県入間郡川越町 養壽院へ移転 |
十八世 |
大賢鑑堂大和尚 |
明治四十年十一月二十九日埼玉県入間郡仙波村字岸長田寺移転 |
十九世 |
捿巌知恩大和尚 |
昭和三十七年三月十三日示寂 |
二十世 |
英安崇彦大和尚 |
昭和五十六年三月四日示寂 |
二十一世 |
仙学俊邦大和尚 |
昭和五十七年 入山平成四年退董 |
二十二世(現在) |
元学俊介 |
平成四年十一月入山 |