雲渓山常昌院は、愛川町の勝楽寺三世であった「種巌宗藝大和尚」によって、四百数十年前(西暦1500年後半頃)に開創されたとされています。
里山の寺として
常昌院は、曹洞宗のお寺ですが、その歴史的背景として、鳶尾山のふところの「里山に対する信仰」があります。里山とは、生活の源である水と緑を育む山のことですが、常昌院は、以前は、沼や池が多く、水が豊富な場所で、まさに、鳶尾山(とびおさん)の懐(ふところ)にある”里山の寺”でした。特に、境内には水の絶えない沢があり、「雨乞いの場」として信仰されていました。
密教や山岳信仰の趣
常昌院の本尊は「釈迦牟尼佛」(しゃかむにぶつ)ですが、元の本尊は「地蔵菩薩」でした。また、この他にも、「弁財天」「薬師如来」「三宝荒神」など、多くの仏像を祀っています。このように、常昌院は、禅宗寺院でありながら、密教や修験的な民衆信仰のおもむきが今も息づいています。
鳶尾山を背景とした寺域
以前の寺域としては、鳶尾山の山頂に「山王社」があり、そこから裏鬼門の峰に「白山社」が配され、表鬼門には「観音堂」(伝・運慶作)が祀られていました。また、その観音堂から「山王社」「金毘羅宮」「八菅の修験道場(現・八菅神社)」へと、鳶尾山の峰伝いに続いていました。
明治時代までは、茅葺きの本堂と庫裡、坐禅堂などの建物がありましたが、昭和33年(1958年)の大火で全焼してしまい(3寸の誕生佛のみが残る)、今は、お堂も仏像も当時のものはありません。また、昭和40年代の裏山、観音山の掘削により景観は変化してしまいました。
所在地の変遷について
開創当初の所在地については、明確な記録はなく「八管(はすげ)下平の地」(現在、愛川町)であることが伝承されています。
常昌院の「山王社」「石造佛」は寛文年間、「三世・岳良長大和尚」の代に建てられ、その約六十年後の「五世・明月活道大和尚」の代には山王社は再建され、境内地も大規模に整えられています。
寺の記録によると、この五世の代に「此の地(現在の寺谷)に移す」と記されています。したがって、三世の代から現在地(厚木市寺谷)と深い縁があり、五世代に堂宇境内が本格的に整備されたと思われます。
開創についての記録 ~「相模風土記稿」から
常昌院 曹洞宗 田代村勝楽寺末 雲渓山と号す、本尊釈迦、開山種巌宗藝 文禄元年十月十五日卒 。山王社 山上にあり、観音堂 本尊は運慶作長一尺三寸 堂中境内の鎮守白山を安ず、薬師堂
歴代の住職
世代 | 名称 | 示寂(逝去)、入山(就任)等 |
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開 山 | 種巌宗藝大和尚 | 天正二十年十月十五日示寂 |
二 世 | 代通良積大和尚 | 寛永十六年五月二十八日示寂 |
三 世中興 | 曳岳良長大和尚 | 寛文十三年二月十九日示寂 |
四 世 | 月桂参道大和尚 | 正徳五年十一月二十日示寂 |
五世再中興 | 明月活道大和尚 | 寛保三年一月二十六日示寂 |
六 世 | 明鼎黙紹大和尚 | 安永二年九月二十四日示寂 |
七世 | 能山明藝大和尚 | 宝暦十年九月十九日示寂 |
八 世 | 大光玄乗大和尚 | 寛政六年十二月二十二日示寂 |
九 世 | 徳應大隣大和尚 | 文化五年七月三日示寂 |
十 世 | 無相海禅大和尚 | 文化六年四月六日示寂 |
十一世 | 道仙義山大和尚 | 文政二年七月十八日示寂 |
十二世 | 大桃義仙大和尚 | 文化十五年十一月九日示寂 |
十三世 | 祥雲玉龍大和尚 | 天保四年十二月十八日示寂 |
十四世 | 覚仙鐵門大和尚 | 安政四年八月六日示寂 |
十五世 | 太宗祖巌大和尚 | 明治五年上総 新勝寺へ移転 |
十六世 | 大仰覚卍大和尚 | 明治十年二月大住郡平澤村浄円寺へ移転 |
十七世 | 天童愚鑑大和尚 | 明治三十一年八月九日埼玉県入間郡川越町 養壽院へ移転 |
十八世 | 大賢鑑堂大和尚 | 明治四十年十一月二十九日埼玉県入間郡仙波村字岸長田寺移転 |
十九世 | 捿巌知恩大和尚 | 昭和三十七年三月十三日示寂 |
二十世 | 英安崇彦大和尚 | 昭和五十六年三月四日示寂 |
二十一世 | 仙学俊邦大和尚 | 昭和五十七年 入山平成四年退董 |
二十二世(現在) | 元学俊介 | 平成四年十一月入山 |